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| ゆずでまちおこしに成功した馬路村。小さな村の大きな挑戦(1) |
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| 杤尾 圭亮 |
| 2008.09.19 |
杤尾圭亮の視点 「まちおこしの達人」Vol.1
● 今回の達人
馬路村農業協同組合 組合長 東谷 望史 氏
「企業の経営は99.9%トップで決まる」
船井総研の創業者であり多くの企業経営に携わった船井幸雄のこの言葉は、地域経営にもそのままあてはまる。
特に地域経営の場合は、地域特性と地域の理念を考慮したビジネスモデルの構築・維持・発展が必須となるため、経営をリードする人物の資質はより重要になる。
「まちおこしの達人」では、数ある地域の中でも新しいビジネスモデルとして地域経済の活性化と理念の実現を達成した地域・人物を取り上げ、ビジネスモデル及び事業を先導した「達人」を特集しそのリーダー像を明らかにする。 |
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地域独自固有の資源を活かした製品を作り日本一を狙う。これは誰もが一度は考える地域戦略である。しかし実際に成功した地域は数えるほどしかない。中でもひときわ輝きを放つのが、今回ご紹介する高知県の馬路村である。
馬路村は、人口1,100人、面積165キロ平方メートルの96%が森林という典型的な中山間地域である。しかし現在では、ゆず加工品において日本有数の生産・販売の拠点として日本の注目を集め続けている。
では、馬路村のビジネスモデル、そしてその立役者とはどんな人物であるのか? 今回の「まちおこし達人伝」では、馬路村のビジネスモデル、及び事業の立ち上げを行った東谷望史氏に注目し、リーダー像に迫る。
■ その村の名は馬路村(うまじむら)
東京から高知空港へ飛行機で1時間20分、さらに車で約2時間。馬路村という名前は、曲がりくねった山道を通り「馬でしか行く事ができない」ことから名づけられたとも言われる。
人口数1,100人という数値だけを見ると、他の限界集落と言われる町村群と大きな差はない。しかし、この地域こそが、日本でもトップクラスの特産品作りと販売の拠点となっている。
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| 馬路村の位置 |
では馬路村で特産品として使われている製品とは何か?
その製品こそが「ゆず」である。
おおよそ馬路村と聞けば知る者全てが「ゆず」と答えるほど、その認知度は高い。その商品群は実に53種(食品35種、非食品18種)、詰め合わせまであわせると商品総数は、94種類に及ぶ。
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| 馬路村の製品群(ゆずの森工場にて) |
また、商品群もさることながら、その売上は従来の村産業の常識を超える。ゆず関連商品の現在の売上は33億円。町の中核企業なみの売上高を達成している。しかも、好不況に関わらずこの売上は現在まで伸び続けている。
昨年度こそ、原材料の不作の影響で4億円ほど売上は減少したが需要そのものは旺盛である。この結果、村内ではゆず関連業務で常時雇用70名、生産農家170名という一大産業を形成するに至っている。
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| 馬路村におけるゆず加工品の売上実績〔単位:百万円〕(農協資料より作成) |
なぜこれほど遠隔地にありながら、30億円を超える売上を上げる事ができたのであろうか?
実は馬路村は、独自に構築した通信販売システムによって遠隔地に対して産地直送販売を行うことに成功している。現在、馬路村農協には35万人の顧客が日本全国に存在している。33億円というと1人当り1万円前後購入しているという計算になる(小売ルートも開発しているため実際の購入額は1万円以下である)。
しかし、疑問はまだ残る。数ある製品の中で、なぜこれほどまでに馬路村が支持されるのか? その秘密こそが「村をまるごと売る」というコンセプトとデザインである。
確かに多くの地域がゆずドリンクというカテゴリーでチャレンジしている。しかし馬路村の商品は、ゆず製品一つ一つに馬路村のコンセプトを付加することで他にはない付加価値を生み出しており、これが圧倒的な支持を生む原動力となっている。
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| 馬路村デザイン(左)と地図に見られるデザイン(右) |
馬路村の製品は合計90を越えるが、その製品に目を移すとあらゆる製品に共通したデザインが施されている。
村の子供が、大人が、飾らない村の言葉で話しかけてくる様子。この素朴なメッセージ性こそが都会の人間達が「見たい、聞きたい」とおもった村の姿に合致し、現在の支持に繋がっている。
■ 成功への道(1)「あきらめない努力」
しかしながら、馬路村の成功への道のりは決して平坦であったわけではない。前掲した売上のグラフは1987年からのものであるが、馬路村においてゆず商品の開発が本格的に着手されたのは1975年、それから約12年間の歳月をかけて成功への道を徐々に広げていったのである。
その人物こそが、この道の中心を常に歩き続けた馬路村農業協同組合の東谷望史組合長その人である。では、東谷氏はなぜ売上が伸び悩む12年もの間、事業を継続する事ができたのであろう。その経緯について話すとき必ず同氏が口にする言葉、それが……
「あきらめない努力」
である。何事も続ければ価値が徐々に出始める。馬路村の成功はひとえに、12年間売れない商品を百貨店の催事場を中心に回り続けたからこそ、ある時突然花開いたのである。
では、一方で東谷氏に12年間という長い年月をこの事業に没頭させたものはなんであったのか? その質問に対しては同氏は以下の3つのポイントを挙げている。
ポイント(1)「個人的危機感」
まず東谷氏を支えたのが、個人的な危機感である。同氏は村の農協に就職し、徐々に「このままの農協では自分が食べていけない。」という危機感を強くしたという。
当時、林業で成り立っていた馬路村では農業は脇役。そんな農業に関わっている農協をそもそも農家は頼りにしていなかったという。「まずは農家に頼りにされなければ将来困る。ではまず農家から頼りにされるためにはどうすればよいのか……?」こうして個人的な危機感から発した疑問が、ゆず加工品という新規産業を生んだという。
ポイント(2)「連帯的危機感」
第2のポイントとして東谷氏が上げたのが連帯的危機感である。ゆずの加工品に活路を見出したものの、実際の売れ行きは12年間低迷する。当時の工場で働く人数は5人。自分を信じて工場で働いてくれている地元の人々を仕事がないままに帰してしまうつらさ。
このまま売れなければ、自分はおろか工場で働く人々の生活までを苦しくさせてしまう。もっと売りたい、そしてみんなで長い間働ける場所を作りたい。この思いが東谷氏をさらに駆り立てる原動力になったという。
ポイント(3)「ゆずへの確信」
そして最後のポイントとして同氏が挙げるのが、「ゆずへの確信」である。危機感に駆られたとしても、仕事や商品を変える事で新しい活路を見出すこともまた一つの方法である。しかし東谷氏はゆずにこだわり続けた。その理由として東谷氏は、「30年以上ゆずを食べ続けても全くあきないおいしさ」を挙げる。
開発当時、まだ「ゆずポン酢」や、「ゆず胡椒」、ましてや「ゆずドリンク」などは一般的に食卓に並ぶ商品ではなかった。しかし自分や村の人間が食べ続けて、今も飽きないゆずならば、一般の食卓にも並ぶ時代は遠からず到来する。結局のところ、地域と自分の「ゆずへの確信」が12年という歳月を超えて馬路村大ヒットを産み出したといえるだろう。
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